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7. 地方都市旅行への手筈
地方都市旅行のためのパーミット取得
イエメンの地方都市を旅行するには、パーミット(通行許可書)が必要になる。はじめは、たかだか県境を越えるために、なぜ、書類が必要なのかと疑問を抱いていたが、歴史を紐解けば、なんとなくだがその必要性が見えてくる。しかし、それを語れるほど詳しくないのでこのように簡単にまとめてしまおう。要は、国内に部族がたくさんいて、それぞれに力が強いのだ。だから、各部族の統治下へ移動する場合、許可が必要だということ。部族という響きに、少ししり込みしてしまうのは私だけではないと思うが、面白いエピソードがある。部族の統治下を旅行者などが通る場合、その安全は部族が保障し、もし移動者がケガを負ったりなどすると、それは“恥”になる、ということ。誇り高きイエメン人らしい。つまりは、イエメン国内で外国人誘拐だのと物騒なニュースも多々聞くが、思っているより安全なのである(もちろん一部危険地域もあるが、そのようなところに行かなければそれほど気に病む必要はない。ただし状況は変化しているので、要注意なことには変わりない)。イエメンでは、部族が国に対して要求を行うために外国人を誘拐するのであって、誘拐された外国人は部族内で丁重に扱われて殺されることはない、と言った話まで聞かれる。
とりあえず、バスの中で盗賊にあったりすることはないだろう……と信じ、地方都市へ旅立つための切符、パーミットを求めてダッバブ(小型乗り合いバス、庶民の足だ)へ乗り込んだ。このパーミット発行、地元の旅行会社に依頼すると10$かかる。自ら行けば無料で発行してもらえる。それに、ダッバブに乗って、人に聞きながら、どこにあるか本当にあるかもわからない発行所を探すのも非常にスリリングで面白い。おまけに、発行所の近くにあった市場は、旧市街にはない規模で、活気であふれていて、「なんだここは!」と興奮させられた。
発行所オフィスでは、2人の男が暇をもてあましていた。よくぞ来たと言わんばかりに温かく迎え入れられ、旅行予定地、期間について聞かれる。パスポートをわたし、コピーをとってもらい、パーミットなるものに、先ほど聞かれたことが手書きで書き込まれる。ものの5分で発行は終わってしまった。その後は、日本についての雑談を交わし、無事地方旅行への手筈が整ったのであった。
イエメン代表料理「サルタ」と「カート」
時刻はちょうど、お昼過ぎだった。近くの市場でご飯を食べようと、一番混んでいる食堂に入ってみる。入って右の一段高い場所では、ゴォォォというものすごい音を轟かせながら、おじさんが石なべに具材を手際よく入れて、料理をしていた。まるでショーのように。雑然とテーブルが並べられた店内には、一仕事終えた男たち。イエメン代表的な昼食料理、「サルタ」屋だった。この超巨大・威力抜群のガスバーナーで、トマトベースのシチューとも言うべき液体が一気にぐつぐつと煮えたぎり、そのままテーブルに運ばれてくる。ホブズというパン(ナンやコッペパン状のものが多い)がテーブルには置いてあり、好きなだけそれですくって食べる。とっても粘性のあるサボテン?らしきものが入っており、癖があり、後半戦になると辛くなったが……非常においしかった。食堂および市場には、私たち以外観光客が見受けられなかった。珍しがられてか、あちこちのテーブルに呼ばれては、「食べてみろ」と食事をおすそ分けしてもらう。風貌は皆ワイルドなのだが、ちょっと照れたはにかみ笑いがなんともいえない。
空腹を満たすと、広い市場の探検へ! 色とりどりの野菜、フルーツ、お肉を売るお店が軒をつらね、それらを求めて通りを行きかう人通りも、旧市街の比ではない。中でも、カート市場の熱気と、そこに集う男たちのだらだら感には笑うしかなかった。
カートとは、緑色の若葉で、その樹液は人体に軽い覚醒作用を引き起こす。カートなしにはコミュニケーションできないと言わんばかりに、誰もが葉っぱを噛み砕きながら、頬一杯にためていく。そして、午前中の仕事が終わった安堵からか、街中が倦怠感で満たされる。道の両端では、ぐでんと腰をおろし2~3人のグループをつくったイエメン人がたむろっている。とくに昼過ぎから夜にかけては、カートを噛んでいない人を見つけるほうが難しい。大の大人がカートを言い訳に集って、おしゃべりに興じるのだ。カートは1人で噛むものではないらしい。一人で何でもする(しなければならない)現代社会の風潮からすれば、女々しく感じられるかもしれないが、私はこの“集い”が、人のあるべき姿なのかもしれないと思う。
例に漏れず、その市場でも、壮絶なカート祭が開催されていた。市場の一角が、緑色の葉っぱで埋め尽くされ、その周りにイエメンの男衆が大群でだら~っとカートを噛んでいるのである。そこにいる男性全てである。突き刺すような日差しの下、光を反射して青々と光る若葉と、イエメン人の身にまとう白い衣服のコントラストが、迫力だった。真昼間から、なんという退廃感。けれども、不思議とゆるく、人のつながりがかもし出す温かい雰囲気が漂っていた。
8. 緑のアラビア・山岳地帯へ
イエメンの棚田と地方都市イッブ
緑のアラビア、ジブラへは乗り合いタクシーで移動する。まずは、地方都市の“イッブ”を目指す。この乗り合いタクシー、がんがんスピードを出すので、バスで移動するよりも到着が速く、若干安いのが特徴。ターミナルでは、南はアデンから西ホデイダなどなどいろいろな方面に行く乗り合いタクシーが待機していて、搭載人数一杯になると出発するしくみ。バーバルヤマンから歩いて10分ほどのところにある。
目的地へ向かうタクシーを見つけると、外国人は珍しいからか、優遇してもらい?すぐに乗ることができた。また女性ということもあり、他の男性と触れ合うことのないよう?、前の席へ。普通に乗ってしまったが、当然だが顔や髪を露出した女性は、外でタクシーなどに乗らない。またもや珍しがられてか、後の乗客からなんだか観察されている気分になった。そして、やはり直接話しかけられることはなかった。日本人2人、イエメン人6人、そしてドライバーの9人でイッブを目指す。しかしこの乗り合いタクシーで、とても濃い時間を過ごすことになろうとは、出発時には予想だにしていなかった……。
サナアを離れ、しばらくすると、後部席では、“カート・パーティ”が始まる。当然のごとく、勧められ、少しトライ。かたく、苦かった。葉の繊維がいつまでも残り、なんだか気持ち悪かった。どうしようもなくなったので、その葉を飲み込むと、「それは体に良くないから飲みこんじゃいかん!」と後部座席からの非難が。体に悪いと聞き、一抹の不安がよぎったが、葉っぱ2~3枚が人体に与える影響は少ないだろうと、開き直る。同行者は、後からどんどんと葉っぱがまわってきていて、仕方なく口へ放り込んでいた。それでも、イエメン人のコブのように大きく頬は膨らまなかった。あれだけ溜め込むには時間をかけて、相当の量をこなさなければならないに違いない。カートがなければ口寂しいといわんばかりに消費し続けるイエメン人に比べ、同行者は苦いエキスが出てくるだけで、とくに覚醒作用もなく、早く吐き出したいとばかり思っていたようだ。
山岳地帯へ入ると、車窓は驚くべき景色へと変わった。棚田だった。アラビア半島は、そのほとんどが砂漠で占められている。そのため、農耕できる土地は限られている。幸いにもイエメンは山岳地帯が多く、緑も多い。緑のアラビアと呼ばれるゆえんだ。とはいえ、自然いっぱいというわけでもない。そこで、人々は土地を確保するため、斜面さえも切り拓いていったのだ。その途方もない労力によってできた棚田がつくりだす光景は、どこにもない特殊な迫力をもって、眼下一面にひろがっていた。思わず叫びたくなった。
運転が荒いイエメン人
そんな素晴らしい景色を過ぎ、荒野の一本のまっすぐな道を高速で走っているときだった。人生初めての自動車事故に巻き込まれたのだ!! イエメンでは自動車社会のルールなぞないと言わんばかりに好きなだけスピードを出し(所有自動車のスペックの限界はあるだろうが)、ぎゅわんぎゅわんと追い越しまくる。もちろん、車間距離などとらない。その状況では確かにいつ事故が起こってもおかしくはないが、誰だって、自分の身にふりかかるとは思うまい。しかし、今回は違った。前を走っていた車が、その前の車を追い越そうとし、しかし追い越しに失敗して(対向車が高速でこちらに向かっていた)、列に戻ろうとした。そのとき私たちの乗った車は、すでにその前の車との車間距離をつめていた。そこで、戻ってきた車のおしりと、私たちの車の頭が衝突!! というわけだ。高速での正面衝突なんて大惨事は免れたけれども、衝突のときの衝撃で下手をしたら、私も頭をフロントガラスに打つところだっただろう。幸い後部座席のおじいちゃんがおでこをぶつけて少し切っただけで、人身事故とはならなかった。
車はそうはいかない。パイプが破損し、オイルが漏れ出すという危険な状態に!!(車のことはよくわからないので、多分そういうことだったと思うが、とにかく走行不可能な状態となったのだ)荒野の真ん中であるから、街まではだいぶ距離がある。前を走っていた車につながれ、とろとろと修理工場のある次の街まで牽引される他手立てはなかった。修理工場では、約1時間ほど待っただろうか? 直らなかったらどうしよう、という不安、到着よりだいぶ遅くなったイライラ(そう感じたのは日本人だけか?)を抱えながらも、それぞれ車外で過ごす。同乗者のイエメン若者に興味があり、いろいろ聞いてみたかったがその元気も暑さに奪われてしまった。同行者が、同乗のおじいちゃんがおでこにケガをしているのを見つけ、絆創膏を渡した。これまで「なぜイスラム教ではないのだ」と攻めるような目が、柔らかいものに変わった気がした、と言っていたのが印象的だった。私は全然こちらに敵意らしきものをもっていたこと、それが変わり始めていたことさえ気づいていなかった。このように、特に年配のイエメン人が外国人(他教徒)に対しどう思っているかということがわかったのは、やはり乗り合いタクシーの近さがあったからだろう。
イエメンでの女性
そういえば、イエメン人が外国人女性に対してどう思っているかを実感したことが、またもやあった。イッブまでの道中、一度食堂に寄り、お昼休憩をとった。その食堂は、旅行中の人々であふれていたが、厳格に男女の食事場所が分かれていた。女性のブースは、テーブルごとに厚いカーテンで区切られており、中をのぞくことは出来ない。私たちはその一区画で食事をしていた。都会でも、女性が外で食事している姿などはまったく見られなかったが、ここでも、厳格にその姿は守られているらしい。しかし……手を洗いにカーテンの外に出たとき、後ろから若めのウェイター(店員は男だったが、オーダーのためカーテンを開けることは許されているようだ)が近づいてきたので、挨拶だけかと思いきや、思いきりセクハラ!! みんなカーテンの内側にいるので、実質人がいないようなものだったし、若さゆえの行動か!? と思ったが怖くて声出せず。急いでテーブルに戻った。あのセクハラ親父といい、ここのウェイターといい、外国人だったら触っていい!! と思っている感じがミエミエなのだ。確かに、普段まったく女性の姿を拝むことさえ出来ない状況であれば、彼女たちがとても神聖なように見える。女の私でさえ、女性に触れてはいけないような気にもなるし、アバヤの内側を想像すれば、なんだかいけないことをしているような……?気にもなる。それにきっと男として彼女たちを守らねば! と思うことだろう(←私の希望だけど……実際は結婚してしまえば、すごい亭主関白だったりするのだろうか、気になる!!)。とはいえ、ほとんどのイエメン人はジェントルマンだったことも書いておかねばならない。
その食堂では、女性と話す機会にも恵まれた。興味はあるものの、外国人に気軽に話しかけるなど一般的にははしたないこととされているのだろうか、まったく触れ合う機会はなかったが、この食堂では話しかけられたのだった。ほんの挨拶・雑談だが、その女性はサバサバしていて好感をもてた。
ようやく、“イッブ”に着いたときは、日も傾いていた。この街の印象は、地方都市って感じだなーということだけだった。街も整備されておらず、〇〇修理屋といった雰囲気のお店が立ち並び、働く男たちがランニング姿で歩いている。イエメン建築も少なければ、外国人にも冷たい(興味がないのだろう)。街の交通の中心といった交差点で降り、右も左もわからないまま宿を求めて彷徨う。地方のビジネスホテルといった感じのところに決め、荷物を降ろす。しーんとして、薄暗いホテル内では、ビジネスパーソンらしきイエメン人がちらほらいたくらいだった。部屋は薄暗かったけれども、落ち着いた色合いのステンドグラスから夕日がさしこみ、なかなかロマンチックだった。
せっかくなので、街歩き。途中、夫婦で歩いていたうちの、奥さんのほうが外国人に興味津々で、私たちにやたらと話しかけたがっていた。イエメン人女性にしては、天真爛漫タイプか!? しかし旦那さんが、それを制して、「こんなやつらと関わるんじゃないよ」と一瞥をくれて、去っていった。街の中心は、小高い丘のふもとに位置しており、首都・サナアとはまた違った活気でにぎわっていた。その高台から見た夕日と、景色は、今までに見たことがない類のものだった。遠くには更に丘があり、たくさんの住宅がその上に立ち並び、みな一様に真っ赤な夕日色に染まっている。穏やかに、日暮れを待つ人々。自然の偉大なる力に包まれ、完敗を認めたとき、人はようやく落ち着けるのかもしれない。世界の全てを赤く染めてしまう、夕日に。
イエメン食に飽きて、必ず料理に含まれている独特の何かのにおいを嗅ぐと、吐き気さえしてくる状況になっていたので、その日の夕食には困り果てた。レストランも見当たらず、コンビ二というか個人商店で、パンとお菓子を購入し、宿に戻る。好き嫌いが多いので、主食が米でない国、ラム肉を使う国、肉メインで野菜が少ない国なんかでは毎回苦労する(ほとんどの国がこのどれかに当てはまる)。だから2週間旅行で-3kgなんてよくあるのである。なんでもおいしく食べられるという人が本当に羨ましい。
9. ジブラの静かな旅
ジブラは、静かなところだった。太陽がじじじと照らしつける音さえ聞こえてくるようだった。その朝は、ステンドグラスの光で目覚め、早々に宿を出、ダッバブ(小型乗り合いバス)に乗り込んだ。イッブからジブラまでは、30分ほどの小旅だ。ダッバブから見たジブラは、こんもりとした小さな三角の丘で、その一面に家々が斜面をもろともせず立ち並んでおり、緑がモザイクのように丘を飾る。村の入り口左の遠方には、アンバランスな2本のミナレットがそびえたち、イスラム圏にいることを思い出させる。
真っ青な空から刺すような日差しが落ちてきて、真っ白な建物にくっきりとした影を宿す。坂道を、汗をぬぐいながら上っていく。それぞれの家の門戸はかっちり閉められ、生活の音すらしない。休み休み坂を上る老人を追い越し、舗装されていない急な坂道へと入ると、ヤギや鶏の声が聞こえてきた。ヤギは、一段高いところにいて、「メーメー」と私たちを呼ぶように鳴き続けていた。ヤギの声は、それ自体弱々しくて愛しくなってなんだかほうっておけない気持ちになってしまう。ヤギのいた場所からは、下方に広がる村を見渡すことができ、なかなか気持ちのいいところに住んでいるじゃないかと励ましてやる。
次第に周りに家がなくなってきて、いよいよ頂上へ到達した。空が近い。素朴で、穏やかで、時の流れから隔絶された世界の果てなのだ、と思う。驚いたことに、頂上からはさらに別の道が伸びており、双子の山のように隣にある丘とつながっているらしい。下から見たときは分からなかったが、頂上から少し下って、少し上ったところに、小さな村があるようだった。そこへ向かう家畜や、それを追う人、子供がときたま通るのだ。貧しい村なのか、子供たちが寄ってきては、お金をくれとせがむ。ひとり、純粋に写真に写りたそうな美少女がいたので、写真を撮った。
頂上はいっそう、静かだった。
名残惜しく思いつつも、丘を下る。途中でシャイをすすりながらも、上りとは違うルートで下っていくと、朝の静けさが嘘だったかのように、にぎやかいマーケットに出くわした。その奥には、年季の入ったモスク。それでも白い壁に、威厳が感じられる。そこは、入り口から見えた、ミナレットが立っている場所だった。モスクへ異教徒は入れないが、このモスクは、入ってもいいらしいとのこと。後ろめたさを感じながらも、白い階段を上る。ここは、かつてスレイヒ王朝を治めたアルワ女王の墓があることでも有名だ。
10. 再びのサナアへ~1日ツアー~
イエメン旅行も終盤にさしかかっていた。ジブラからサナアに戻った後は、サナア周辺都市を巡る1日ツアーに申し込んだ。
- フォトジェニックで有名な「ロックパレス(RockPalace)」のあるワディ・ダハール
11. サナアの週末
帰国の日が近づいている。街全体が、にわかに浮き立ったような空気の週末。いくつも電球がつながれた装飾具を、旧市街の道路に設置する街の人々。今日は何かあるのかもしれない、淡い期待を胸にお土産探しに商店街へ出向いた。ピンクと黄緑の淡いペイズリー柄が美しいカシミヤのストールや、干しぶどう、布などを購入する。ストールは繊細でエキゾチックで何十年も使えそうな代物。日本で買うことを考えれば安かったので、たくさん買っておけばよかったと後悔している。土産屋を出る頃には、夜の帳がおり、遠くからにぎやかな音が聞こえてきた。
イエメンの結婚式
今でも、思い出すと、そのあまりに美しい記憶の光景に胸が締め付けられる。無数の電球が放つ淡い光が夜空ににじむ様子、小さな広場に街の全員が集まったのではないかというくらいの人だかり、全員が笑い、踊り、祝う。にぎやかく、厳かに。私はこんな結婚式を見たことがない。
イエメンの結婚式は、男女別に行なわれる。私たちが見られるのは、街を上げて催される新郎のパーティー。広場でジャンビーア・ダンスをはじめとするセレモニーを行なったあと、電飾で彩られた街を、爆竹音とともに派手な車で練り歩く。そのとき新婦は新居で女性だけ集まってやはりお祝いをしているのだろうか。その後、また路上に設置された大宴会場ならぬ大カート場で男たちがカートを噛んで夜を明かす。長~く広いテントのなかには無数の座卓と座布団が用意されており、すでに人であふれかえった会場は異様な迫力をかもし出している。全員が片頬を膨らませ、酔っ払っているのだ。
路上パーティーも一段落して、宿に帰る途中、偶然にもこの大カート場に出くわしたため、面食らってしまった。あまりにも盛り上がっていて、普段の恥じらい気味のイエメン人らしくない振る舞いに驚き、カートを噛みに来いよ、という誘いに乗ることを躊躇ってしまった。部外者がおいそれと参加していいのかも分からず、カートを勧められても困るし、とその場を後にしてしまった。
偶然と必然が混じりあった熱狂の夜だった。わたしたちは浮かれた街のなかで、静かに帰国に向けて準備を進めた。
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